(承前)世紀末のその頃、気になっていることがありました。「撮る!撮る!撮る!」と、熱狂と興奮のうちに写真を始めたのに、いつの間にか「作品撮り」と称する特別な日にしか撮らなくなっていたのです。
カメラに毎日触れるためには、毎日なにかを撮るように決めればいいと考えました。たまたま近所に東京タワーがあったので、その日の天気を記録する意味を含めて、それを写すことにしました。 少したってからは、自分の顔も追加しました。自分が老いて行く様子を毎日記録しようと思ったのです。1年や2年では見えない変化も、10年20年後には必ず顕在化しているはずです。しかも10年に一度撮るのとは違った、微細な変化の集合体ができるのです。この作品が完結するのは死んだときなので、今わの際をどうするか、いまからあれこれ想像しています。以前、友人に「最期はチベットで鳥喪にして、ついばまれるところを撮影してほしい」と頼んだら、言下に拒否られました。ま、夢は夢として、お墓のかわりに誰かがこの作品を仕上げてくれるのを願いつつ、期待と不安を抱いて旅立つのでしょう。なかなか成仏できそうにありませんね。 カメラは手軽なコンパクトカメラにしました。根が怠惰なので、一眼レフのような重たいカメラでは挫折するのが明白でした。大切なのは続けること。しかも1年や2年ではなく、10年20年それ以上。ピントも露出もカメラまかせ、Gパンのポケットに突っ込んで、思いついたらパチパチやるくらいでちょうどいいーーということにしました。 ふたつめの記録写真ですが、「記録」にもいろいろあります。僕がイメージしたのは、古い写真です。 50年前、100年前の街並みの写真を見ていると、“あの時”が化石となって封じ込められている感じがして、画面のなかに吸い込まれそうになります。とくに、点景で写っている人物には鋭く反応します。そこに陽が差していたりすると、もうたまりません。彼が浴びている光の感触を想像し、かつて、確かにそこにいた不思議さに、呆然とします。 50年後の日本人のために撮ろう。将来、見ず知らずの誰かが僕の写真帖を見たときに、「ああ、1999年はこんな年だったのか」と感じられるようなものを作ろう。 なんだか尊大なことを言っているようですが、実際の撮影は、何かを「表現する!!」というより、世界から一歩身を退いた匿名性の強い行為です。どっかの誰かが「自分探しの旅に出る」と言ってあっさり引退しましたが、こっちは「自分を捨てる旅」です。(告白すると、すでにあるものを捨てるのだから、ないものを探すより楽だろうと甘く見ていたところがありました。でも、昔から言われているように、「捨てる」のは案外難しい。写真を撮ることは、自分を受容体にして、世界を受け入れることだと気付いたのは、ずっとあとになってからです。今では、自分に出来ることは世界を複写する程度だと思っています) こうして、駅前の風景や繁華街を行き交う人々、その日会った人、テレビのニュース映像やポスターなど、未来の日本人と共有できそうなものを選んで撮り始めました。そして、自分の美意識が前面に出たものを「趣味の写真」と呼んで、徹底的に排除しました。夕焼け雲の美しさも道端の吹き溜まりの憂鬱も、記録としてはまるで役に立ちませんから。それでもつい悪いクセが出てしまったりするので、その誘惑を断ち切るために、すべての写真に日付けを入れることにしました。ここまで禁欲的にしたのは、もちろん、「捨てる」ためです。 タカのリュウダイ/'07/09/07 次回のUP日は、10月5日を予定 ※エッセイ中に掲載の作品は全て販売しております。
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