(承前)こうして、未来の日本人のために記録映像を残すという大それた目論見で「毎日写真」はスタートしました。ところが、2〜3年が過ぎたころから、封印していた趣味の写真を撮り始めました。誘惑に負けたのです。同時に、そんな写真からは日付を外しました。 きっかけは、ある日ふと、日々目にするたくさんの光景を頭から消え去るままにしておくのが、勿体ない気がしたのです。記憶が消えると、自分が過ごした時間まで消えてしまう気がして、それを勿体ないと感じたのです。結局、今の自分を形作っているのは、過ごしてきた時間の感触ですから。 頭にぼんやりと残っている様々な光景。思い出そうとしても覚束ない光景。それらを明瞭なイメージに定着することができたら…。それは人類の欲深さそのものかもしれません。しかし写真はそのための道具ではなかったか。たとえば家族の記念写真のように。そしてもし、膨大な記憶のコレクションを作ることができたら、それは自分の脳内を可視化するようなものになるはずです。写真と記憶が密接に語られてきたことが、その期待をより大きくしました。 こうして、未来の<日本人>から未来の<自分>へと伝える対象を変えました。興味の対象も記録から記憶に移りました。世のため人のためという当初の目論見はあえなく頓挫したのです。「未来の日本人」というようなあいまいな対象に向けて撮り続けるのはやはり無理だったのでしょう。そもそも、そんなそんながらにもないことをしようとしたのが間違いだったのかもしれません。 さて、未来の自分はどんな光景を記憶しているのか。写真は記憶を写せません。だから、記憶になる前に未来を予測して撮らなければなりません。自分のことだから想像がつきそうなものですが、これが案外難しい。 そこで辿り着いた方法が「やみくもに撮る」。今見ている光景が将来どんな意味を持つかわからない以上、アッと思ったら、とりあえずシャッターを押してみるしかありません。 未来から逆算して“今”を選ぶことはできない−−これは毎日写真を撮る中で、嫌というほど思い知らされたことです。実に効率が悪いけれども、結局、写真を撮るという行為は、意味付けも価値付けもできない“今”に向き合うことなのだと思います。さらに言うなら、そういう得体の知れない“時間”を物質化したものが写真なのかもしれません。少なくとも、定められた結末に呼応する形で“今”が在る“物語性”とはまったく異質なものです。 <果たして写真は記憶を先撮りできるのか?> タカのリュウダイ/'07/10/05 次回のUP日は、11月2日を予定 ※エッセイ中に掲載の作品は全て販売しております。
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