(承前)記憶のコレクションを開始してからおよそ5年。 残念ながら「できない」というのが現時点での結論です。でも、素直にそう認めてしまうのは癪なので、「できていない」と言っておきましょう。僕自身の努力不足・怠慢の可能性もありますし、第一、たった5年で判断するのは、あきらめが良すぎる気がします。 記憶にある光景はつねに写真とズレる。それが何故なのかはわかりません。いま、東京で「毎日写真」の展覧会をやっているのですが(本格的展示は初めてです)、全部で150点くらいある展示作品を改めて見つめてみても、記憶とぴったり一致するものはなかなか見つかりません。1点だけ、これは!と感じるものを発見しましたが、それは子供の頃に住んでいた家の近所にあるショーウィンドウで、すでに記憶にある光景を求めて数年前にわざわざ写しに行ったものでした。言うなれば“後出しのじゃんけん”。「先撮り」とは言えません。 他はどうかと言えば、かなり可能性を感じる写真も数点あるのですが、記憶の光景とはどこか違う気がしてしまいます。もちろん、ほとんどすべての写真で撮影した時の状況を思い出すことができます。いろいろ思い出すけれども、肝心の光景は写っていない。しかも欲しいのはシャッターを切った直前直後だったりします。この微妙なズレは、もしかすると、シャッターを切った瞬間だけが盲点のように記憶から消えているからかもしれません。恐ろしいことですが。 現在手掛けているシリーズに「太陽シリーズ」というのがあって、もうほとんど頓挫しかけているのですが、2年ほど前、その撮影のために中国の旧満州に出掛けたことがあります。それまで撮影のために旅に出ることはなかったので、初めての撮影旅行でした。 このときの撮影も、「毎日写真」と同じく、記憶に残りそうな瞬間を刈り取るという気持ちでやっていました。初めての撮影旅行だったこともあり、真剣に撮りまくりました。結果、自分の脳に記憶させるのではなく、フィルムに記憶させようとしていたのかもしれません。記憶の外部化です。(余談ですが、将来、記録装置が高度に発達したら、こういうことが普通になるのでしょうか。例えば「その件なら、記憶の外部装置に確認してみるよ」とか。でも、あるいは<辞書>はどうでしょう。記憶する手間を省くという点では、原初の外部装置と言えそうな気がします。そもそも、<文字>はそういう意図から創られたのではないでしょうか。) ただ、不思議なことに、あの撮影から2年がたち、当時の記憶が少しずつ生まれています。記憶には「短期記憶」と「長期記憶」の2種類があるそうですが、僕が問題にしているのは長期の方です。だとすると、「記憶」になるのには、地下水のように時間が必要なのかもしれません。 先日、7〜8年ぶりに見返してみました。(手許にあるのは2001年以降で、初期のものは倉庫に預けっぱなしになっていました) このころはまだ興味を向ける範囲が狭かったのだと思います。
“撮れている”つもりになっていたのは、写真をナメていた証拠でしょう。実際、手応えを感じるようになったのは、3年くらい続けてからでした。常日頃カメラを持ち歩き、「見る/撮る」という行為を繰り返すうちに、目が肥え、体が馴染んで来たおかげだと思います。 タカのリュウダイ/'07/11/02 次回のUP日は、12月7日を予定 ※エッセイ中に掲載の作品は全て販売しております。
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