かつて「女の子写真」と呼ばれるものが旋風を巻き起こした時期がありました。若い女の子が身の回りを私小説風に写したあれです。2001年に3人の女性が同時に木村伊兵衛賞を受賞したのは、その象徴的出来事でした。写真史的には、それまでアングラ的存在だった荒木経惟が90年代の初めに突如社会の表舞台に躍り出た、その延長線上に来た流れと解釈されているように思います。 「センチメンタルな旅・冬の旅」(1991年)に代表されるように荒木経惟は自分の私生活を写し続けました。たしかにそれまでの写真家で私生活を題材にする人はほとんどいませんでした(僕が思いつく範囲では深瀬雅久と島尾伸三くらいでしょうか)。その意味では彼が日本の写真界に「私生活」を持ち込んだと言えるかもしれません。しかし彼は80年代にはすでにアングラ界のヒーローでした。 スターの私生活は半ば公的なものでもあります。身辺の雑事を語るのも、スターゆえに許されるという暗黙の了解が、発信する側・受け取る側の双方にあったような気がします。誰もが同じようにやっていいわけではないし、誰にも知られていない自分達の私生活に興味を持つ人もいないだろうと、当時の写真小僧は皆、考えていたのではないでしょうか。 それが90年代の後半に入ると、自分の身辺を写した若い女性(もちろん無名)の写真が突然、大量に流通するようになったのです。自分の私事にみんなが興味を持つと信じて疑わない彼女たちに強い違和感を感じながらも、その迫力に圧倒されました。「信じる者が勝つ。理屈じゃない」ことを痛感した一事でした。 もっとも、彼女たちの仕事には魅力的なものが多かったのも事実です。新鮮だったのです。とりわけあの頃矢継ぎ早に写真集を発表していた蜷川実花には衝撃を受けました。 それまで写真といえば「男の世界」で、被写体の意味を読み取る(解釈する)ことが大切にされていました。荒木経惟も例外ではありません。世界を外側から覗くというか、他者を狩り取るというか、ともかく世界との一体感は少ない。それに対し蜷川実花の写真は、世界の内部にいるような、自分を抱きしめているような、そこにはイメージしかないという感じがしました。被写体が何であるかはもはや問題ではありません。写っているのは、大好きなものに包まれているという<感覚>です。世界との親和性がこれほど強い作品を見たことがありませんでした。 彼女の仕事をいわゆる「女の子写真」の範疇に入れていいのか迷います。私生活を写しているというより、私的な感覚を写しているからです。荒木チルドレンのように見られていた「女の子写真家」たちの中には、このように、まったく別の眼差しを持っていた人が案外多いのかもしれません。とすると、彼女たちの中に「女の子写真」と呼ばれることに反発を感じていた人が多い(らしい)というのも、理解できます。そもそも、「女の子写真」の実体が何かと問われると答えに窮してしまうのですが‥‥。 いかん、「男の子写真」について語ろうと思って、その前提となる「女の子写真」について考えるうちに、どツボにはまってしまいました。 来月つづきが書けるかどうか‥‥ タカのリュウダイ/'07/12/07 ※エッセイ中に掲載の作品は全て販売しております。
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