(承前)さて、もう一度やり直しです。 見ず知らずの女の子の唾液や使用済みパンツが価値をもつなんて、テレビも新聞もろくに見ない僕は知りませんでした。たまたま友達がやってきてテレビをつけたらそんな番組をやっていて、唖然としたものです。「世の中の流行も知らずに作家になんかなれないぞ」と笑われたのを今も覚えています。 そうです、ひとりひとりはスターではないものの、多くの人から好奇の目を向けられる彼女たちは、十分に自分の価値を知っていたのです。好むと好まざるとに関わらず、あるいは意識するしないに関わらず、彼女たちは若いうちから社会に揉まれていたのです。自信をもつのも当然です。 先日、ルーズソックス全盛期に女子高生だった知人と話していたら、「あたしもマーケットのあるうちに色々やっておけば良かったな」と冗談まじりに言っていました。それは、「もう自分に市場価値はない」とも言っているわけで、まだ30歳にもならないのに残酷なことではありますが、いずれにせよ、こんなことを言える男子がどれだけいるでしょうか。 女子に比べると、男子はゆっくりと歳をとります。特徴的だと感じるのは、最近、若い人のセルフポートレートを見る機会がありますが、総じて男子のほうが自分を客観視するのが苦手な点です。まじめに撮るにしろ、茶化して撮るにしろ、見ているこちらが気恥ずかしくなるものが多い。ナイーブと言えば聞こえはいいが、翻訳すれば「幼稚」(もっとも、「三四郎」にもあるように、漱石の昔から男はナイーブということになっているようですが)。 ただ、僕にはむしろ、女の子の冷め方や大人び方のほうが気になります。あの若さであれほど絶妙に距離をとることができる。それも当たり前のように。自分の見え方について、甘いナルシズムに浸る隙など与えないほど厳しい社会の目に曝されているということでしょう。 今の日本は、ある面で(ある年齢までは)男の子が幼いままでいることが許される社会なのだと思います。それは、経験が乏しく心の準備も整わないうちに社会にからめとられてしまう恐怖や苛立ちや不安から守ってくれるやさしい社会とも言えますが、反面、そういうストレスこそが「青春」なのではないでしょうか。 青春が甘酸っぱいなどというのは老人の戯言で、当の本人にとってはシビアなサバイバルにすぎません。楽しくもなければ美しくもない、ドロドロの醜い毎日の連続なのだと思います。問題は、それが個人レベルにとどまるのか、社会の大きなうねりに巻き込まれるのかです。「語られる青春」は常に時代を背負っています。 (以下次号) タカのリュウダイ/'08/01/11 ※エッセイ中に掲載の作品は全て販売しております。
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