(承前)「女の子写真」のポイントはこのへんにあるのではないでしょうか。つまり、若い女の子がイイ気になって自分を見せびらかしたというような呑気なものではなく、必然から来る切実な流れがあった。大げさにいえば、70年安保の学生運動を最後に日本の社会から消えてしまった青春がそこには写っていた。たとえば‘72年に発表された森山大道の写真集は「写真よさようなら」で、タイトルからすでにヒリヒリするような青春を感じますが、それと同じように青春の書だった。あの時期(90年代の中頃)、何かが変わった。漠然とした印象ですが、モラルが折れた。箍(たが)が外れた。弱い者に牙を向けることにためらいがなくなった。彼女たちは先例もないままにそんな社会に立ち向かわなければならなかったし、生き残るために必死で走らされたーー。 先月号で袋小路に入ってしまったのは、蜷川実花に目を向けてしまったからで、本来なら長島有里枝をイメージするべきだったのかもしれません。彼女の「PASTIME PARADISE」は1992年から2000年にかけて撮られたもののようですが、ページを繰るにつれて、写っている彼女自身の雰囲気が穏やかになっていきます。 この本は、ハリネズミのように殺気立っている若い頃から、居場所を得て幸せを感じられるようになるまでの日々が綴られた青春の好著だと思います。 --それにしても、青春かあ。「女の子写真」の実態が青春だったなんて、当たりまえと言えばそうですが、ちょっと以外な結論でした。 さてさて、前置きが相当に長くなってしまいましたが、実はこれからが本題です。 実はこの連載が決まった時、まっ先に浮かんだのは彼のことでした。当初は若い男の子の日常が上手に綴られていれば「男の子写真」になると考えていましたが、今となっては、彼の写真から感じた「青春」と「女の子写真」の「青春」が同質のものかをもう一度確かめてみる必要がありそうです。 青春を語るには、時代に出会わなければなりません。それは個人の力ではどうにもならないことです。難しいのは、そんな時代に自分が居るのかどうかは、過ぎてみないとわからないことです。しかし写真は撮り直しがききません。小説や映画のように、過ぎた日々を回想して表現するということができないのです。そこが写真の難しさであり、おもしろさです。 ちなみに、僕の感覚では、70年代の終わりから80年代前半にかけての藤原新也以降、青春の書といえるものは途絶えているような気がします。藤原新也は学生運動の“熱”を最後まで伝えたひとりだと思います。 タカのリュウダイ/'08/02/06 ※エッセイ中に掲載の作品は全て販売しております。
|
|||||||||